理想郷の受難












ニュージーランドのクライストチャーチの地震。

美しい街なみ、そしてそこに住む人びと、
訪れる人たちが犠牲となった。

個人的な思いも重なり、ニュース以上のニュースだった。

ニュージーランドやオーストラリアの
いわゆるオセアニアについては、書きたいことがいっぱいある。

オーストラリアには、
1年ばかりの自転車旅で、多くの現地の人と知り合い、
いくつかの家族の家には滞在もさせてもらった。
その日々を通算すれば、1年のうち2ヶ月ぐらいにはなっていたと思う。

ニュージーランドには、1週間ばかりだが、行ったことがある。
クライストチャーチにも立ち寄っている。


ニュージーランド、オーストラリアは、
社会が成熟し、とても進んだ、理想郷ともいえる国だ。

その一面として「高福祉」というのが挙げられよう。

たとえば、
オーストラリアは豊かな国ではあるが、
恵まれない人もたくさんいる。

旅の途上、知り合った人には
ベトナム戦争の帰還兵や、難病認定の患者、
失職者や、転職を志す失業者なども含まれていた。

そういった、社会的弱者の人たちが、堂々と旅ができる。
なかにはオーストラリア一周という長期旅行をしていた人たちも。

日本だったら。
生活保護を受けている人は、
旅はおろか、手段としてのクルマを持つことさえ制限される。

日本の失業者なら、月イチの認定日が障害となるだろう。

そもそも、オーストラリア国内を旅行するのは、
宿泊代、ガソリン代が安く、費用がかからないから、
最低限の手当でも、やりくりすれば旅費は工面できる。


そういう人たちと知り合って、
ご家族のお宅を訪問し、何日か泊めてもらう。

社会的弱者と言われる彼、彼女らは、決して不幸には見えない。
病に苦しんでいたり、傷ついているのは確かなのだが。
それはなぜか?

これらの人たちの暮らしに触れて、思ったこと。

「サポートを受けている」
前途がなかろうと、将来が不安でも、支えられているのだ。

ひらたくいえば「高福祉」なのだが。
そういう言葉で、簡単にかたづけられない何かがある。
それはなにか?

「人は誰でも傷つくことがある」
このことが根底にあるのではないかと思う。
社会的コンセンサスとして。

こういった政府スローガンがあるわけではないし、
現地の人に確認したわけでもない。
あくまでも個人的所見としてだが、そう感じた。


ニュージーランドのクライストチャーチの大地震。
オーストラリアでは、クイーンズランド州の大洪水もあった。
多くの人々が被害を受け、癒せぬ傷を負った。

政府をはじめとした手厚いサポートが差しのべられ、
傷ついた人たちは、限界こそあれ、支えられることだろう。

冒頭でも述べたが、
クライストチャーチをはじめ、オセアニアには美しい街が多い。
自然環境、そして景観が護られている。

それは、人が護っているからだ。
よって、人という存在自体を護らなければ、その美しさは護れない。
ならば、人そのものを護るにはどうしたらいいのか?

答えるまでもないだろう。


■2011/02/27■



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Illustration:Motoko Umeda

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